宮古島ってどんな島?(クイチャー)
コーディネーターのKOKOです。
宮古島では、地域によって様々な祭祀が行われています。これまで、池間民族最大の祭祀「ミャークヅツ」や、来訪神としてユネスコ無形文化遺産に登録されている「パーントゥ」について記事を書きました。
今回は、宮古島の代表的な芸能、「クイチャー」についてお話しましょう。
目次
宮古のクイチャーとは
クイチャーは、宮古諸島の各地に伝わる集団の踊りです。
豊年祈願や雨ごい、または娯楽として、昔から集落ごとに踊られてきました。
ふつう、野外で輪になって歌い踊るものです。
皆で声を合わせて歌いながら、円陣をつくり、両手は前後左右に振る動き、足元は大地を踏みしめ飛び跳ねる動作をしたり、その合間に手拍子を打ったりします。
歌の内容は、豊作を祈る歌、雨ごいの歌、恋人への思いを込めた歌、生活や労働の喜び、苦しみなどをうたった歌などさまざま。
人々の生活や信仰に深く結びついて伝えられていて、「ザ、宮古の芸能」という感じ。踊りや歌は他の沖縄の島々と違い、また同じ宮古諸島の中でも、地域によってずいぶん違い、地域的特色が強い踊りです。
クイチャーの起源?
一説に「くい(声)を合わせる(チャー)」とされています。
基本的には楽器を使いません。
14世紀中頃、宮古島戦乱の時代を勝ち抜いた目黒盛豊見親(めぐろもり とぅゆみゃ)が、宮古全島を統一した際に、機構の一つとして踊り部(ぶどりぶ)を制定したのが始まりと言われています。
1700年ころ、琉球王府と対面した宮古島の神女たちが、「こいちゃ」踊りをお目にかけることになっていました。
この「こいちゃ」が宮古クイチャーかもしれません。
お祭りや何かの儀式の時の踊り、というだけでなく、明治や大正時代には、子どもたちの娯楽でもあったようです。
当時の新聞には、伊良部島では、夜になると、生徒たちが勉強をしないでクイチャーに興じていたと書いてある記事もあります。
クイチャー禁止?
1872年(明治5年)、宮古島の頭が沖縄島に出向いたとき、首里王府から宮古島における「風俗」に関する禁令が手渡されました
その中で、なんと「クイチャーは禁止」となっていたのです。
どうしてでしょうね。首里王府にとって、クイチャーは地域の伝統文化というより、若者の風紀を乱す娯楽というイメージがあったのかもしれません。
でも、実際には宮古島でクイチャーが禁止されていたかというと、そうでもないようです。
1894年(明治27年)、人々を苦しめていた人頭税の撤廃を請願する国会請願団が宮古島に来た時、宮古島の農民たちが出迎えてクイチャーを踊ったというのです。
国の重要無形民俗文化財
1964年、宮古島観光協会主催の第1回宮古クイチャー大会が開催されました。
その後、沖縄本島や本州でも宮古のクイチャーが公演され、1987年、「荷川取クイチャー」が市の無形民俗文化財に指定されます。
その後1990年代は、城辺町のまつりでクイチャー大会が行われ、2000年に入ると、クイチャーフェスティバルが立ち上がりました。
そして「宮古のクイチャー」は2002年、国の重要無形民俗文化財に指定されました。
各地のクイチャー
クイチャーフェスティバルでは、各集落で踊られているクイチャーをその保存会や自治会などの人たちが披露します。
円になって、回りながら歌い踊る、という基本形はありますが、それぞれの地域で踊りや歌は違い、自分の地域のクイチャーに誇りをもっているようですね。
KOKOは、池間島の祭事で池間のクイチャーをよく見てきましたが、クイチャーの中でも特徴的です。
男性は勢いよく飛び跳ね、女性の拍子が難しく、さらに、曲の途中でいきなり方向転換して逆回りするという。
何度踊っても間違えます。
漲水(はりみず)のクイチャーが一番知られています。観光客の方が郷土料理と三線ライブの店などに行くと、だいたい最後にこの漲水のクイチャーをみんなで踊って盛り上がりますね。
学校の運動会とか老人会でも、たいてい最後に地域の年配者も参加してクイチャーを踊るんです。
宮古島出身者は踊れない人がいないほど、今でも地域に根付いた踊りですね。
次回はそばの話をはさんで、宮古島の名前についてご紹介
次の機会には、宮古島によくある名前についてご紹介しようかな。
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